一番直したいと思っているのは、顔・・・じゃなかった・・・あそこ・・・ってそれは別の話だから、いいとして・・・(;^ω^)
やりたくないと思っていることに、なかなか重い腰が上がらないこと。
人間だから誰しも、手を付けたくないことにはなかなか手を出しづらいと言うのが本音だと思うけど、ワタシの場合はホントもう極端だと思う。
づらいじゃなくて、ときどきはやらないで逃げてしまうことがあるから。
なんでだろう? と思うけれど、直らない。
直さなければいけないのだけれど直らない。
でも、これを突き詰めて考えるとだんだんとネガティブになっていくので、逆に考えないようにしていると、やっぱり直らない。
ワタシは心理学に詳しくないので、これがどういう状態なのかはわからないが、あまりよろしくない状態のような気がする。
でも、やっぱり・・・
泣くのは嫌だ笑っちゃえ(古ッ)なので、直らないでもいいか(-_-;)
単純に直すよりは、問題解決のために新しいアプローチを考えて、やりやすい方法でやる、というのを考えるほうが、ワタシらしい気がする。
どうせ、これをしなければならない、って固められてしまうとできないんだから、もっと柔軟に。問題が解決されればいいわけだから、別の方法で解決すればいいだけの話で・・・
考えばかり進んで、堂々巡りにならなければいいのだがねぇ。
考えるのは好きである。
あれこれと、想いを巡らせて、物事の真理を追究する。
なんだか哲学みたいだが、名は体を表す。
ワタシのもともとの名前には、「哲」の字が入っている。
これは、多少は父母の影響もあるのだろうし、小さい頃から図鑑ばかり眺めていた頭でっかちな子供だった故もあるのだろう。
三つ子の魂百まで、というが、やっぱり小さい頃からワタシは何も変わっていない・・・のかもしれない。
たぶん、小さい時から、♂ではなかったんだろうし・・・
小さい頃は銭湯に家族で行っていた記憶があるのだけれど、いつも父と一緒で、母とは一緒ではなかった。
と言って、父は頻繁に家を空けていたから、銭湯には母と一緒に行ったことの方が多いはずなのだが、その記憶がない。
当時のボロアパートにはお風呂などはなく、洗濯場も共同で、たぶんトイレも共同だったはずで、物干し場は屋上にあったはず。
台所も共同だったかは、記憶が混乱していて定かではない。
とにかく、母と一緒に銭湯に行った記憶はない。
いつも父と一緒で、男湯と女湯の仕切りのところにタイル貼りの水槽があって、そこを抜ければ反対側に行けるような構造になっていた、と、思う。
幼いワタシは泳げるわけもなく(実際に泳げるようになったのは小学校六年生である)、向こう側に行くことはかなわなかったのだが、そのかなわないことがとても残念な気がしたのを記憶している。
これって何かの暗示なのかもしれないな、やっぱり、こんなんだからか?
いや、考え過ぎだろう、それは。
考えたら無駄な思索だが、そういうのがワタシは好きである。
哲・・・だからな。
まあ、そういうのが本当の欠点なのかもしれないが。

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