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父のこと

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父は活動写真の弁士だった・・・

それは嘘だけれど、映画界の末端で働いていたのはホントのこと。

今でこそ、映画は映画館でも宣伝をするし、テレビでも、宣伝をする。
雑誌は、次にこんな映画があると取り上げるし、インターネットでもあちこちで宣伝しきり。
でも、昔は・・・

マイナーな映画はそう簡単には映画誌でも取り上げてもらえず、娯楽大作でもない映画はわかりにくい、面白くない、と切り捨てられて、でも、それでも、作った以上は上映しないといけない、できるだけ多くの劇場で、できるだけ多くの人々の目に触れたい、そういうふうに少しずつ映画は広まってきた。
誰かが宣伝しなければ、誰かが映画館と交渉して回らなければ・・・そういう人達は、フィルムを後生大事に抱え、地方を飛び回ることになる。

鉄砲玉・糸の切れた凧と母は父のことを言った。
よくは憶えていないけれど、多分そんなことを言ったのだと思う。

一度出かけたら、二ヶ月も三ヶ月も帰ってこない。
まるで遠洋漁業の漁師みたいに。
でも、どっと札束を抱えて帰ってくる、わけではなく、黒い顔になって帰ってくるだけ。
漁師並みに焼けてはいるけど、貧乏なのは相変わらずで、たまによくわからない置物と、いつものようにひよこ饅頭。
一度は火山弾を持って帰ってきたこともあった。
火山弾と、桜島の写真。
私の旅行に対するあこがれは、多分、あの頃の記憶が培ったものなのだと思う。

父は、九州を回っていた。
福岡と鹿児島と宮崎と・・・持って帰ったおみやげから想像するに多分そこらへんだったんだと思う。
鈍行列車に揺られて、えんえんと時間をかけて、重い荷物とフィルムを抱え、頭を下げて回る毎日。
重い足を引きずりながら、時には朝早く、時には夜遅く。

父は抑留者だった。
自発的に、満州に行き、衛生兵として。
父の体調の良いとき、よく、満州の話や映画の話をした。
曰く、満州の冬がいかに寒いか、曰く、ああいう映画を見たほうがいい。
つらい話になると、口が重くなる。
その寒い満州から更に寒いシベリアに、抑留された兵士の末路は、まだ少年兵だったことでだいぶましだったようだけれど、それでも生きるか死ぬかの世界だったに違いない。

随分、保証なんてなかった。
国の政策で、満州に多くの人が進出し、運良く帰れたもの、抑留されたもの、その場で亡くなってしまったもの、多分みんなそんなには幸福じゃなかっただろうに、それでも日本は復興した。
でも・・・シベリアに残されて、帰ってきた時にはみんなひどい有様だったのに、国は随分何もしてくれなかった。

父は、細々映画の仕事をしながらそれでもなんとか日々を生き抜こうとしてもがいていた。
遠くに出かけない時も、重い自転車の荷台にフィルムをくくりつけ、あっちの劇場、こっちの劇場に。
戦争で焼けた神戸の街も、どんどん復興して、あちこちに映画館が増えていった。
テレビはまだ普及したばかり、高嶺の花で、貧乏人には手が出ない。
ビジュアル文化の中心は、映画だった。

若いころの父の顔は、よくわからない。
私には人の顔を憶える能力が欠けているので、そのせいかもしれないのだけれど、それにしても覚えていなさすぎだと思う。
やはり、顔を合わせる機会が圧倒的に少なかったのだ。
多分、普段から家には寄り付かないくらい、出ずっぱりの生活だったのだ。

その父が突然、家に帰ってきた。
上半身を真っ赤に染めて。
頭から出血し、それがYシャツを赤く染めていたのだと言う。
フィルム運搬中に後ろから自動車に追突され、頭から落ちて怪我をしたのだと言う。

大したことはない、それが当時の自動車側も、父の方も、そういう軽い認識だったらしい。
ちゃんとした補償も受けず、その場の示談で終ってしまったらしい。

父はついてない人だった。
徹底的についてない人だった。

良かれと思って満州に行き、良かれと思って示談にしたら、あとがよくなかった。
さほど経たないうちに後遺症が出た。
頭を打ったことよりも、追突された時の衝撃で強く首を傷めたらしい。
頚椎の軟骨が潰れ、恒常性が維持できなくなり、結局仕事を続けていくことができなくなった。

おそらくは情熱をかけた仕事だったのに。
挫折・・・父は、それから、徐々に荒れるようになった。

何に対して荒れたのか、どうすればいいのか、自分でもわからないという感じだった。
父が穏やかなのは、自然の中にあるときだけで、幼い私を山に連れて行ったり、川に連れて行ったりした。
私も小さい時からふらふらと自然の中に出ていってしまうような子供だったから、父とは波長があったのだろう。
時には喜んで、時にはいやいやでも父に従いて行って、いろんなことを学んだ。

そんな父の血を引いているワタシも、どうやら、貧乏くじを引く体質のようだ。
でも、父もそう思ってたと思うけれど、このままでは終わらないぞと思っている。
明日はどっちにあるかわからないけれど、きっとどこかにある。
あの山を超えれば、そこに頂上が見えるはずだ。

半分くらい、フィクションです。
直接聞いたわけではないので、印象だけで書いていたり、推測で書いていたりするからです。

ちなみに、若者たちは父の関わっていた映画の一つで、これのフィルムを抱えて地方を飛び回っていたようです。

ワタシも小学生に上がる前くらいに連れていかれましたけど、そんなもんわかるわけがありません。
何を思って連れていったのか・・・

でも、映画に関してはワタシ早熟で、小学校の時から一人で映画を見に行ったりしていました。
大体は、父のコネでただで入れる東映まんがまつりが主でしたけど(今から思うと宮崎アニメとか見てたわけです、長靴をはいた猫とかね)、どうしてもゴジラが見たくて何とかお小遣いをせびって一人で映画館に行ったこともありました。
確か、ミニラが始めて出る話だと思ったけど、あんまり内容は覚えてませんね。

叔父さんに連れてって貰って、確か日本沈没も見に行ったような・・・藤岡弘の。
考えたら、あんな殺しても死にそうにない人の・・・

確か、同時上映はエスパイだったような・・・小松左京豪華二本立てって感じですよ。
もちろんその当時はそんなこと知らないんですけど。
これも藤岡さんが主人公だったはず・・・由美かおるさんも出てたような気がする。

調べたらわかることだけど、そんなことで昔の記憶を補完してもしても仕方ないですね。
勘違いしていたとしても、ワタシの大切な記憶だから。

まだ、男の子だったはずの、ワタシがそこにいます。
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コメント

きぼう丸さま まんがいんく : 2012/02/13 (月) 12:28:14 修正

ワタシは半ば強制的に連れていかれていましたね。母の買い物と同じで、荷物もちが多かったです。
基本ハンティングだったわけです。(^-^;

 きぼう丸 : 2012/02/13 (月) 01:43:39 修正

伯父がお父さまと同じでシベリアで抑留されていました。
あたしが小さい頃の父の仕事は有名な作家の陶芸を背負って売りに行くという仕事でした。なので出張ばかりで一緒に過ごす事が少なかったんですよ。
それでね、休みの日はあたしと妹を連れて土手とか野山だとかよく歩いてたんですよ。
読んでいて懐かしく思い出してしまいました。

ちやこさま まんがいんく : 2012/02/13 (月) 00:30:20 修正

フォント、変えてみましたよ。
どうでしょう?

読みにくければまた変えますよ~

若者たちは、ワタシにはよくわかりませんでした。
さすがに子供だったので・・・

す、すごい! ちやこ : 2012/02/12 (日) 22:38:18 修正

をいをい、「若者たち」って言ったら超名作じゃないですか!
あの時代の代表作と言ってもいいくらいだと思いますよ。
人気は高くなかったかもしれないですが(当時はもっとおバカ映画ばかり人気があって)
支持した若者は大勢いたと思います。
ちょっとびっくりです~

あの・・・・私老眼なのでこのフォント、ちょっと読みづらいです・・・ごめんなさい。
短文ならこのフォント素敵なのですが
まんがいんくさんの長文ブログ好きなので、もう少し読みやすいフォントにしていただけると
大変うれしいのですが・・・
ご無理でしたら結構ですので。
おばさんのたわごとと看過してください、申し訳ございません。

tookoさま まんがいんく : 2012/02/12 (日) 22:02:13 修正

うちの父は単にええかっこしぃでしたよ。
内弁慶でねぇ・・・困ったもんでした。

よく弟と衝突してました。

ののさま まんがいんく : 2012/02/12 (日) 21:58:50 修正

ええ、仕事が続いていてもいなくてもきっと苦労したでしょうね、母は。

ちょっと晩年歪んでしまったみたいだけど・・・

母のことはいずれまた書きます。

hinataさま まんがいんく : 2012/02/12 (日) 21:56:14 修正

ワタシも、父が帰って来なかったら生まれて来なかったんですねぇ・・・

父と母の出会いの話は、また面白そうなので、フィクションで間を埋めて書きますね。
全部フィクションになっちゃうかも・・・(^_^;)

たつさま まんがいんく : 2012/02/12 (日) 21:54:27 修正

なんだか悪いところばかり受け継いだようで、ときどき嫌になります。

今は頑張らないとダメですね。

lingminさま まんがいんく : 2012/02/12 (日) 21:50:39 修正

やっぱり、ワタシが一番父の影響を受けているみたいで、ある意味一番似ているかもしれません。

かえるママさま まんがいんく : 2012/02/12 (日) 21:49:12 修正

ありがとうございます。
実は、フォントもちょっと変えました。

人には言えない苦労があったんでしょうけど、父の言を聞くと、よかったのか悪かったのかわからない時がありました。

強い人だったけど、弱い人でもありました。
それが人間かな・・・

テンプレート変えたんですね K-tooko : 2012/02/12 (日) 20:34:47 修正

私の父も まんがいんくさんのお父様によく似ています。
すごく 格好いいのだけど ついていない人なんです。
しかも 空気が読めなくて・・・
継母の目の前で 私が実母に似ていると
平気で言うから いつも継母がヒステリックになって うんざりです。
穏やかに 暮らしてほしい。
それだけが願いです。

 ののさん : 2012/02/12 (日) 18:38:26 修正

こんばんは

お父様は大変な人生を送られたのですね
家族の方も
でも
お父様が重いフイルムを担いで上映された映画をみて
感動した人たちが 沢山いたことと思うと
とても凄い事をしていたと思います
お父様のような方がいたからこそ
映画が上映されたのですから
尊敬に値すると思います
でも 家族の方々はとても苦労なさったのでしょうね

 hinata : 2012/02/12 (日) 17:22:01 修正

こんにちは。

お父さまのお話を読んでいて、父の昔の話を思い出しました、
私の父は予科練出身で、特攻隊として散る運命だったそうですが、
飛行機で出撃する前に戦争が終わってしまったそうです。
そのおかげで、今の私がいるわけですが(笑)

私も父とふたりで、よく野山を歩きました。
図鑑で覚えた花の名前を呼びながら歩いていた…懐かしい記憶です。

こんにちわ たつ : 2012/02/12 (日) 13:06:52 修正

へぇ~テンプレートが変わったことには全く気付きませんでした。
かえるママ21さんすごいですね!否、私が鈍感なだけなのかも~

お姉兄さんの回想録を見て、私の両親の生きた時代を思い起こしました!
シベリア抑留の話とかテレビでもやっていたし、
あえて、私は、そのことには触れませんけれどね。

お姉兄さんは お父さんのDNAを、そんなに 受け継がれているんですね。

ところで、私も過去のことを思い出しました…。
私は、子供の頃、竹馬の友と田舎の映画館を見に行ったことや、川原で洞窟をつくって遊んだことや
砂ゾリに乗って山の斜面を駆け抜けたことや、
山で、大きな栗をもぎ取って硬いけど 無理して かじって食べたことや、
山に隠れ小屋を作って探検ごっこしたことや
川原で桑の実を沢山もぎとって帰ったら、ポケットの中が紫色に染まった苦い思い出が蘇って来ました。

 かえるママ21 : 2012/02/12 (日) 08:08:36 修正

テンプレートが変わったんですね。いい感じですね。
うちの父もおじいちゃん達と樺太から引き上げて来たので、とてもよく分かります。
本当に苦労をした世代の人達ですよね。

 lingmin : 2012/02/12 (日) 00:51:43 修正

今晩は♪
お父様の心が裕福ですね!
好きな事、好きじゃない事を全て経験し。。。

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